夏目漱石の道楽と自由

職業は卑俗であればあるほど儲かり、他人本位であればあるほど儲かる。それは人の”ため”になるから。自分本位であればあるほど儲からない。世間のご機嫌を取り得ないから。

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そこでネ、人のためにするという意味を間違えてはいけませんよ。人を教育するとか導くとか精神的にまた道義的に働きかけてその人のためになるという事だと解釈されるとちょっと困るのです。人のためにというのは、人の言うがままにとか、欲するがままにといういわゆる卑俗の意味で、もっと手短かに述べれば人の御機嫌ごきげんを取ればというくらいの事に過ぎんのです。人にお世辞を使えばと云い変えても差支さしつかえないくらいのものです。

 

だから御覧なさい。世の中には徳義的に観察するとずいぶん怪けしからぬと思うような職業がありましょう。しかもその怪しからぬと思うような職業を渡世とせいにしている奴は我々よりはよっぽどえらい生活をしているのがあります。しかし一面から云えば怪しからぬにせよ、道徳問題として見れば不埒ふらちにもせよ、事実の上から云えば最も人のためになることをしているから、それがまた最も己のためになって、最も贅沢ぜいたくを極きわめていると言わなければならぬのです。道徳問題じゃない、事実問題である。

 

現に芸妓げいしゃというようなものは、私はあまり関係しないからして精くわしいことは知らんけれどもとにかく一流の芸妓とか何とかなるとちょっと指環を買うのでも千円とか五百円という高価なものの中から撰取よりどりをして余裕があるように見える。私は今ここにニッケルの時計しか持っておらぬ。高尚な意味で云ったら芸妓よりも私の方が人のためにする事が多くはないだろうかという疑もあるが、どうも芸妓ほど人の気に入らない事もまたたしからしい。

 

つまり芸妓は有徳な人だからああ云う贅沢ができる、いくら学問があっても徳の無い人間、人に好かれない人間というものは、ニッケルの時計ぐらい持って我慢しているよりほか仕方がないという結論に落ちて来る。

 

途中略

 

それで前申した己のためにするとか人のためにするとかいう見地からして職業を観察すると、職業というものは要するに人のためにするものだという事に、どうしても根本義を置かなければなりません。人のためにする結果が己のためになるのだから、元はどうしても他人本位である。すでに他人本位であるからには種類の選択分量の多少すべて他を目安めやすにして働かなければならない。要するに取捨興廃の権威共に自己の手中にはない事になる。

 

途中略

 

ただここにどうしても他人本位では成立たない職業があります。それは科学者哲学者もしくは芸術家のようなもので、これらはまあ特別の一階級とでも見做みなすよりほかに仕方がないのです。哲学者とか科学者というものは直接世間の実生活に関係の遠い方面をのみ研究しているのだから、世の中に気に入ろうとしたって気に入れる訳でもなし、世の中でもこれらの人の態度いかんでその研究を買ったり買わなかったりする事も極めて少ないには違ないけれども、ああいう種類の人が物好きに実験室へ入って朝から晩まで仕事をしたり、または書斎に閉じ籠こもって深い考に沈んだりして万事を等閑に附している有様を見ると、世の中にあれほど己のためにしているものはないだろうと思わずにはいられないくらいです。

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